田上菊舎について
1753年、長門国豊浦郡田耕村(下関市豊北町田耕)の長府藩士・田上由永の長女(本名は道)として生まれた菊舎は、十六歳のときに近くの村田利之助のもとに嫁ぎますが、二十四歳のときに夫と死別します。
二十六歳のときに長府の五精庵只山から「菊車」の俳号を授かり、長府の田上家に復籍します。
二十九歳のときに萩で得度し、美濃派六世朝暮園傘狂宛の添文を持って俳諧の旅に出ました。
天明二年、三十歳で美濃の朝暮園の門に入ります。そして「一字庵」の称を得て越前・越後・奥羽と、芭蕉の「奥の細道」の逆の行程を辿る俳諧行脚の旅に出ます。
三十一歳のときに俳号を「菊車」から「菊舎」に改めます。
寛政2年、三十八歳のときに京都東山双林寺での傘狂主催芭蕉百回忌取越法要に参列し、宇治萬福寺をはじめ名所旧跡を巡ります。
享和3年、五十一歳のときに長府藩主十一代毛利元義に召され、御用絵師分流斎と「前田二十勝」を合作します。
文化四年、五十五歳のときに父・了左が亡くなります。田耕妙久寺で報恩講及び父と夫の法要を営みます。
五十九歳のときに京都西本願寺の親鸞聖人五百五十回忌に参詣します。
文化9年、六十の還暦の記念に「手折菊」四巻を発刊しました。
六十四歳のときに母・タカが亡くなります。
文政7年、七十二歳のときに田耕へ向かい、故郷の人々と俳諧興行をします。 そして蓁々園村田桃葉を立机させ、一字庵二世とします。
文政9年8月23日、長府印内にて死去します。七十四歳でした。 法名は「一字庵菊舎釈妙意」です。長府中之町本覚寺に遺髪を納め、長府金屋町徳応寺に遺骨を納めました。
菊舎が生涯を通じて作った句の数は三千数百といわれています。
菊舎の作品
菊舎の句
月を笠に着て遊ばゞや旅のそら
秋風に浮世の塵を払けり
報恩をおもへばかろし雪の笠
咲花に今届く手のたゞ嬉し
薦着ても好な旅なり花の雨
山門を出れば日本ぞ茶摘うた
日本の花見せてやるさくら哉
むかふかたに金神はなし花の雲
解て行物みな青しはるの雪
折かけて置くも無念のあざみかな
花見せる心にそよげ夏木立
旅人の物にして置く清水かな
夏山に雲見て済す芳野かな
床机から瀬ぶみして見る涼かな
暁の鐘に咲たつ蓮かな
濁したは誰がわるさぞ燕子花
見て居れば踊たふなる踊かな
世話やいた花はづかしき野菊哉
おもかげや六十帖の秋の月
万物の秋をおさめて頭陀ひとつ
稲のある里へ出て先づ落つきぬ
うき我を照せむかしの秋の月
けふは今日に咲て芽出たし花槿
ちりし人は今朝をかぎりの朝顔か
身ひとつの秋かとぞ思ふ雨の暮
雲霞呑つゝ越ん菊の山路
白雲に香を吐く菊の山路かな
くれ竹の伏水の色や星祭り
鴫たつや跡には細き水の音
咲き初た日は忘れけり鶏頭花
踏しめて登るも清し霜の花
山中や笠に落葉の音ばかり
松島や小春ひと日の漕たらず
雪に今朝まじる塵なし日の光
鐘氷る夜や父母のおもはるゝ
旅に居て旅尊とみぬ翁の日
水仙やもてば雫の手にこぼれ
交りを洩れて行身の寒哉
天目に小春の雲の動きかな
初雪になるか赤間の灘の音
故郷千里星と物言ふ歳暮かな
雲水のくもみて急ぐ冬至かな
こゝろ冴るまでは叩きぬ雪の門
たゞ頼む宝の山や六つの華
山鳥のほろゝ身にしむ小春かな
花の骨も犬さへ喰ぬ枯野かな
冬枯は見せぬ手がらや錦帯橋
両の手に乗せて給仕や薺粥
旅と思ふ年とてもなし明の春
思ふ処昇る所や初日影
こころ遊べ天涯比隣冬籠
雲となる花の父母なり春の雨
幾春も絶ぬ産湯の流れ哉
流れ寄ものははづして柳かな
錦着るや一世の晴の月の笠
敷忍ぶ秋た竹田の稲むしろ
かえり見るや浦島ならで神祭り
故郷や名も思ひ出す草の花
白菊や染たがる世の中をぬけ
よしあしに渡り行世や無一物
雪の竹やちらす力はありながら
塵取に仏性有や花の陰
故郷恋しむかしわすれぬ梅見月
無量寿の宝の山や錦時
菊舎俳句動画
菊舎の旅程